書籍・雑誌

2017年3月28日 (火)

読書・90歳 何がめでたい

  3月27日
 先日、NHKの夜のニュースでこの本がよく売れていると
内容も兼ねて紹介していた。書店で見かけてはいたが、
買おうとは思わなかったけれども楽しそうなので買ってみた。
佐藤愛子のエッセイは有名だけれども、初めて読むことになった。
笑いながら本を読むのは過去にあったかしら?と思うほど
楽しくあっと言う間に読んでしまった。

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自分で考えているようなことを、佐藤愛子が代弁してくれている
ような気持になる。ちょっとさわりを述べてみると、このような具合
になっている。
「若者は、夢と未来に向かって前進する。
老人の前進は死に向かう。私の夢はぽっくり死ぬことである。
私の夢はとうとうここまで来てしまった」など。
佐藤愛子も有名だけれども、兄のサトウハチロウ(母親違い)も
詩人として歌などを残している。
佐藤愛子は今年93歳になるといいまだまだ頑張るそうで
元気になれる本を読んだ気になった。

2017年3月18日 (土)

読書・木戸幸一日記

3月18日

先に読んだ東京裁判(極東国際軍事裁判)は、木戸幸一の日記を証拠に裁判が進められたとあり、日記が気になっていた。木戸幸一は最後の内大臣でありその印象としては、戦争中 木戸が重臣たちを陛下への拝謁を阻止したとか、内大臣が陛下を動かしているとか、東條英機を推薦したとかで悪い印象を持っていたけれども、読んでみると全く違っていた。こんな事あんな事と時代の流れを知ることができた。

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木戸幸一日記は重要文書として図書館の倉庫に保管されていて持ち出しができないため、毎日通って読んだ。原本は昭和5年から昭和20年までの記録を毛筆で書かれているものを上、下巻にまとめている。カタカナをひらがなに替えただけの全文を記載している。「せざるべからざることなりと思う故」などの意味をしばし考えたり、メモを取りながら読むとずいぶん日にちがかかったけれども、一番気になるところは開戦の頃と終戦の頃のことがわかり、東條を推薦したときの心境や、終戦には必死の思いで軍部の各大臣を説得する様子がわかった。

御前会議の様子は一人一人の言葉を芝居の台本のように、こと細やかに記録している。強烈な印象は木戸が終戦工作をしているとき、8月13日阿南陸軍大臣が内大臣室を訪問したときのやりとりに 木戸が和平に向けた話を切り出すと、阿南は「本土決戦をするつもりだ」と木戸の意見に応じなかったので、木戸は「もし敵に上陸されて三種の神器を取られ、伊勢神宮が荒らされ歴代朝廷の御物がボストン博物館に陳列されたらどうするつもりか」と迫ると阿南は沈黙し「あなたの考えには大体賛成だ」と言って出た。そして8月15日阿南は自決した。

木戸幸一は、維新の三傑木戸孝允(桂小五郎)の孫にあたる。父(孝正)は東宮侍従長だった。木戸と近衛文麿の関係は学習院時代からの友人で共に京大に進みゴルフ仲間でもあったし、近衛の推薦で牧野伸顕内大臣の秘書官長、宮内省宗秩寮総裁を兼任するが、近衛内閣のとき文部、厚生大臣を歴任している。昭和15年西園寺公望、牧野の推薦で内大臣を終戦まで続け最後の内大臣となる。

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木戸は学生時代から日記を書いていた。

昭和5年から20年までの木戸幸一日記の原本。

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毛筆で書かれている。

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東京裁判期は、昭和20年12月A級戦犯容疑で巣鴨に収監されてから、東京裁判終了までの日記を記録し、スガモプリズンの様子や裁判の進行状況を記録している。木戸幸一日記を提供した動機は天皇陛下を裁判に出廷させないことにあり、平和主義者を証明するためでもあったが、終戦の後証拠書類は焼却されていたため、木戸幸一日記が唯一の証拠になり軍部から恨まれていた。

30回に及ぶ取り調べが行われ、日記をもとに詳しく聞かれている。法廷で前満洲皇帝溥儀が証人台に立ち、溥儀に対する尋問で「平気で虚言を吐く態度は近年にない不愉快であった」と書いている。各被告の起訴状証拠提出に木戸の日記がたくさん出されている。

昭和23年4月に審理が終わり休廷 判決を待つのみとなり、その間の不安の様子がわかる。新約聖書や仏典などを何度も読んだり、トランプで勝負ごとをしたりラジオが毎日聞けるようになり音楽、ニュースを聞くことがうれしいなど。11月12日判決が言い渡たされ、死刑7名、木戸を含め16名が終身禁固刑、東郷20年、重光8年となる。木戸は「すべての戦いは終わった 気持ちが朗らかになった」。12月23日に死刑が執行された。わざとなのか この日は皇太子(現天皇陛下)の誕生日であった。

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スガモプリズンで書かれた日記大学ノートにペン書き。

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便箋で鉛筆書きになる。

木戸幸一は10年後体調不良で仮釈放になり、大磯で暮らし昭和52年88歳で生涯を閉じた。その間天皇陛下が葉山に静養されるときは時々御用邸に訪問されていたという。

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昨日スガモプリズンの跡地に行ってみた今は東池袋中央公園となっている。

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左の方に慰霊碑が見える。

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何人かの写真と花が手向けられている。

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右の方にはサンシャイン60ビル(1978年竣工)1985年まで東洋一の高さを誇っていた。周辺のサンシャインシティ、サンシャイン通りなどは若い人でごった返し拘置所跡とは思えないほどであった。

2017年1月14日 (土)

読書・東京裁判(極東国際軍事裁判)

1月13日
図書館に返却に行くと、今日は借りないと思いながら一回りし「東京裁判」の分厚い本の前で考えてしまう。返却日まで読むことができるかなと。関心があるのは東条英機の弁護人清瀬一郎と言う人である。十数年前、私は某病院の個室担当で働いていたとき、「清瀬」という病室に見舞客が頻繁に出入りしていて、客が多い時は子息が廊下を行き来していたため、立ち話をする機会が多かった。その話の中で、祖父が清瀬一郎で東京裁判で弁護をしたけれど、負けてとても生活に困ったと聞いていたのでこの際、読もうと思って借りることにした。
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アメリカ人ジャーナリスト(アーノルド・ブラックマン)が四半世紀をかけて資料を収集した事実を書いている。ブラックマンは1946年の東京裁判の取材のため来日。1948年裁判終了まで滞在した。清瀬一郎の弁護とその背景をまとめてみた。
裁判は、1946年5月にオーストラリアのウェップ裁判長で始まった。
清瀬は冒頭に 正義と公平との要求のため、ウェップがこの裁判をするには適当ではない。ポツダム宣言の趣旨を守って裁判をするにはウェップは適当ではないと裁判長の交代を要求し、ニュージーランド判事が代理で再開し、全員は無罪であると主張した。
清瀬: ドイツは無条件降伏したが、日本はポツダム宣言の降伏受諾をしたから有条件降伏だ。日本はポツダム条項の一つである戦争犯罪人の罪とは、世界共通の言葉「戦争犯罪」だけが課せられるもの。「平和に対する罪」や「人道に対する罪」について告発することは、戦争犯罪という範囲を超越する。国際法にはこのような犯罪は存在しない。ポツダム宣言は1941年~1945年までの戦争を凍結させるもので、それとは関係のない諸事件を起訴状に引用するなど断じて考えられない。起訴状の却下を要求する。
裁判は、検察側の主張や証人発言が多く、被告の弁護を却下するところが多かった。アメリカ人弁護人(カニンガム)はウェップ裁判長と幾度となく口論していた。カニンガムはアメリカ法律家協会の会議に出席し、「東京裁判の主要な悪弊」という文書を提出した。カニンガムが告発した事項を少し拾ってみる。
〇この裁判の目的は、報復であり、弁明であり、宣伝であった。
〇ロシアを含む起訴諸国は、日本に対して告発した犯罪から自国が免れていることを示せなかった。
〇まさしく法廷にロシア判検事がいるために、この裁判は矛盾したものとなった。
〇極東憲章は、明らかに事後法であった。
〇被告は、公正な裁判を与えられなかった。
〇反対尋問は、証拠の抑圧というに等しいほど制限されていた。
〇検察側証人は優遇され、弁護側証人は冷遇されていた。
〇判事たちは裁判中、何か月も欠席した。
〇侵略戦争は決して十分に定義されていたわけでもなく、処罰可能なものとされていたわけでもない。侵略戦争が犯罪であるならば、なぜ諸国は不侵略条約を作らなかったのであろうか。国家行動に対する個人責任は矛盾している。裁判所がこのような法律上の曲芸に魅せられるとは思わないと述べている。
裁判長は同僚判事たちにアメリカ法律協会は、カニンガム氏が法廷侮辱罪を犯したと考えれば、だれも耳を貸さないであろうと確信する。そしてカニンガムを「今後の審理から排除する」と宣言した。
アメリカ弁護人の一人が、清瀬弁護人は世界最高の法律家の一人と絶賛していたが、弁護をことごとく却下されて裁判は終了した。
死刑を宣告された7人:東条英機、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章。
東京裁判は、勝者が敗者を一方的に断罪した報復的な政治裁判だった。

2017年1月 3日 (火)

読書・歴史を動かした女たち

1月3日

図書館で興味のある本を探すこと1時間ほどで

見つけた1冊を読んでみると、映画やドラマ、歴史本に

登場する人ばかりだった。ただ一人一人の背景と人生を

書いている。

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「原始女性は太陽であった」という書き出しが面白い。

明治44年平塚らいてうが初の女性誌「青鞜」の創刊号に

掲げた一文である。「私どもは隠されてしまったわが太陽を

取り戻さねばならない」と宣言した。

天照大神は女神である。二・三世紀に実在した卑弥呼は中国の

史料に記録されている。八世紀ごろまでに登場する女性天皇も

多く、政治に関わる皇后も多かった。その後は男性社会となり

女性は支える側になる。文学面では名を残す人が多い。

以外なのが歌舞伎の創始者は出雲の「阿国(おくに)」女性だった。

江戸時代に男性だけが演じるようになる。

女性が演劇界に進出する道を開いたのが明治41年

帝国女優養成所を創設した川上貞奴だった。

明治になって女流小説家・歌人が続々登場し、岡本かの子は

あの岡本太郎の母親だった。ソ連に亡命した岡田嘉子は母親が

オランダ人との混血であったと述べている。33年ぶりに一時

帰国したときは70歳だったが気品のある美貌は記憶に残っている。

2016年12月12日 (月)

幕末を生きたお姫様たち

12月11日

政治の表舞台は昔から男性である。現在は女性も
大きく取り上げられ、小池百合子はその代表的存在
になっている。激動の幕末・明治をその妻たちは
どのように行動したのかと、いつも気になっていた。
この本は、とても読みたかった本だった。
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1、篤姫は本でも読み、ドラマでもその働きは周知している。
数人の生き方を取り上げているので少し記録してみたい。
徳川慶喜の妻美賀子の実家は五摂家の一つ一条家であるが
養女となって一橋家に嫁いだ。本当は婚約者の身代わり
(一条の娘は疱瘡で醜くなったため)だった。夫婦の不仲は
諸大名まで知れ渡り、半年ほどで自殺未遂をしている。
長きに渡り別居状態であった。
2、慶喜の母吉子の実家は有栖川宮(本人は登美宮と呼ばれた)
水戸藩主斉昭に嫁ぐ。斉昭の激しい性格を陰から支え
斉昭が蟄居処分となると水戸へ同行し、藩内の争いの融和を
図るなどかなり政治力を発揮したとあった。
明治になると東京で暮らし、90歳まで生きた。
3、桜田門外の変で暗殺された彦根藩主井伊直弼、以外にも
幕府の計らいで生きていることにして、子直憲に家督相続を認め
お家断絶を避けその後公式に直弼の喪が発表される。
その直憲に嫁いだのは有栖川宮熾仁の妹宣子(のぶこ)だった。
4、戊辰戦争で活躍した一人に照姫がいる。けが人を看護し多くの
女性が照姫様のために戦うと言うようになった。照姫はその後
剃髪し照桂院と称した。明治になって実家の飯野藩邸、旧会津藩
家老宅と転々とし東京で生活するようになる。
晩年は会津へ何度か赴いている。
5、伊達保子は実家仙台藩伊達家に生まれ仙台藩の分家
亘理伊達邦実に嫁いだ。幕末に仙台藩は奥羽越列藩同盟を
主導したため、減封されその分家の亘理伊達家も大きく減封されて
生活ができなくなって北海道の開拓を決意する。夫邦実は
すでに亡くなり保子は子邦茂・家臣一同と共に行き家臣たちの
面倒を見た。アイヌの人々とも仲よく付き合い、邦茂は政府から
高く評価される。大藩の姫から開拓民へと数奇な運命であった。

2016年11月28日 (月)

天才・田中角栄の生涯(石原慎太郎書)を読んで

11月28日

風邪の流行で外出もままならない日々が続く中、以前から買い置き
していた本を読んでいる。 「天才」 を一気に読んでしまった。
田中角栄の生涯をいろいろな文献を参考に一人称で書いている。
田中角栄と言えばロッキード事件を思い浮かべる。
この書のあらすじをまとめてみた。
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いつかNHKでロッキード事件を特集し、その真相を突き止めて
いた。それは、日本が非核三原則に違反する対潜哨戒機P3C
をハワイ会談(ニクソンX田中)で密約し、アメリカから購入した
ことへのすり替えだったと。NHKではその時収賄があったと結論
していた。
田中角栄は高等小学校を卒業後、家計を助けるために土木工事、
現場監督などを経て上京し、働きながら夜学に通う。
軍隊にも徴兵されたが肋膜炎と肺炎を併発し送還され除隊となる。
飯田橋近くに「田中土建工業株式会社」を設立し、事業を拡大
していった。
政治への入口としては選挙資金を候補者に出していたところ、
立候補を進められ新潟から29歳で当選する。30歳で吉田茂内閣の
法務政務次官、39歳で岸内閣の郵政大臣、大蔵大臣、通商大臣を
経て54歳で総理大臣その2ヶ月後日中国交正常化を実現する。
翌年オイルショックが発生し、その対応に追われ原発へ補助金を
充てるようになる。56歳のとき金脈問題を追及され内閣総辞職。
三木内閣が発足する。58歳のときロッキード事件が発覚し逮捕される。
自民党を離れ無所属になるも選挙ではトップ当選する。72歳で政界を
引退する。
私生活では、上京して借家住まいをしていたとき大家の娘(離婚して
子供が一人いる)が何かと世話をしてくれるため、そのまま結婚した。
そして二人子供が生まれるが長男は5歳で肺炎で亡くなる。長女は
田中真紀子である。また愛人もいて、その一人は秘書の佐藤某との
間には娘がいた。このことについては当時の週刊誌が大きく
書き立てていたため娘はリストカットや自殺未遂までしている。
神楽坂の芸者との間にも二人の息子がいる。
平成5年75歳で生涯を閉じた。
田中角栄が提案者となって成立した議員立法は33に上る。
石原慎太郎は、田中角栄という未曽有の天才政治家の人生を
アメリカの策謀で失ってしまったと書いている。

2016年11月26日 (土)

アジア史概説

11月26日

数日前、図書館で目にとまった本を手にしたときアジア人で

ありながらアジアのことを知らずに過ごすよりも、少しでも

知識が得られるのではと思い借りて帰った。借りたはよいが

能力不足でなかなか理解ができずそのままにしていた。

風邪を引いたお陰で、なかなか読み進まなかった本を

ゆっくりと読むことができた。と言っても理解できないところが

大方のところで、日本と関係のある部分には気を引かれ

やはり読んでよかったと思い忘れないうちに記録しようと思う。

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1、インド文化と日本

仏教は世界で最初に現れた宗教である。

キリスト教に先立つこと六世紀とある。

単に宗教思想としてではなく、インド文化全体を

唐を通路として朝鮮を経て日本に伝来した。

馴染みのある、囲碁や将棋も起源はインドにある。

数学も最初にインドで生まれ今日のような形をとることが

できた。中でも唐の時代が中世文化の黄金時代となった。

2、中国の皇帝

中国は大小の異民族の集結で同民族の結束は固いが

常に侵略を繰り返し、勝利した民族の王が皇帝となり

国名を替えていた。蒙古帝国の襲来にも悩まされ、ジンギス汗の

孫フビライが中国を手中にし、皇帝となり「元」の時代を築き

100年あまり続いた。その後漢民族、満州民族と続く。

3、アジア史上における日本

1,2世紀のころ中国古記録に日本からの訪問者があったと記録

されている。日本が古代史的な国の統一を完了したころ中国は

隋、唐時代であった。中国から流入した文化は日本的に変化し

日本文化が中国へは逆流しなかった。

4、中華民国の変還

1912年革命運動が中国各地に波及し、袁世凱によって清朝は滅亡した。

袁世凱が初代総統に立ち独裁体制が成立したが、全国から非難され革命、

内戦が繰り返される。日本の寺内内閣は中国の政情を安定させるため、

多額の借款を与える。軍閥との結合に排日運動が展開され、

内乱と日本軍の侵入で戦うことになる。

5、満州国の出現

1932年日本軍は、宣統帝溥儀を迎え満州国建国の宣言を発表した。

満州国は日本の承認を得たのみで国際的には認められなかった。

中華人民共和国として一つにはなったものの内乱は続き、

アメリカの仲裁と援助で蒋介石率いる国民党は台湾へ逃れた。

その後も文化大革命などがあったが周恩来の時代に資本主義

との共存も不可欠との思いで日本やアメリカとの国交回復が行われた。

この本は中国語に翻訳されて台湾で、ハングル語に翻訳されて

韓国でも出版されている。

2016年9月 2日 (金)

歴代皇后125代を読んで。

時々感動する本に出会うと感想を書いて
おこうと思い、記録します。



神武天皇より今上天皇までの皇后について
紹介しています。皇后陛下のことはあまり
知られていないので夢中で読みました。
早く崩御されて天皇の後を女帝として君臨した人
また、お産後すぐ崩御された人 等々で
天皇により皇后のほか数名の妃を置き、数十人の
皇子、皇女を儲けたり、中でも室町時代の
後醍醐天皇は、波乱の人生でしたが女性関係にも
精力的で、生涯二人の皇后と33人の女性に
40人近い子供を産ませたとあります。なんとも
やるせない気がしますね。
明治天皇も皇后のほか5人の女性を置いていて、
大正天皇は、2番目の女性の親王でした。
その後は、皇后だけの世界となりお二人で
行動を共にしています。


2016年6月 9日 (木)

ライシャワー夫人とは。

先日、ライシャワー大使を読んで 夫人のことを詳しく
知りたくなり ハル・ライシャワーを探して読みました。

ざっと、あらすじを書いてみました。



父方の祖父は、元総理大臣の松方正義。母方の祖父は、
群馬出身の貿易商。単身で絹をアメリカに売った新井領一郎である。
幼少期より英語の家庭教師、アメリカンスクールに学び大学は
アメリカに留学して帰国した。
戦後は、ジャーナリストとしてアメリカの新聞や週刊誌に投稿していたので、
ジャーナリスト仲間の紹介でライシャワー氏と知り合い、40歳で結婚するが
ライシャワー氏は、妻を亡くして3人の子供を連れ、
日本研究員として東大に学んでいた。
思春期の子供たちの母親になることへの努力や、
家庭を守りながらもジャーナリストとして、記事を投稿したりしていた。
結婚5年目に駐日大使として日本に来ることになった。
5年余りで ベトナム戦争激化に伴い辞任して帰国することになった。
帰国後もアジアの難民救済事業に協力したりして、
長男の子供に韓国から養子を迎えている。
現在の天皇が皇太子時代アメリカ訪問の際、
ライシャワー邸に宿泊しておもてなしをしている。
ライシャワー氏は79歳で、ハルさんは83歳の生涯でした。

2016年6月 3日 (金)

ライシャワー大使を読んで。

ケネディ大統領の就任演説に感銘を受け、
ハーバード大学教授から駐日大使となって
5年余りの記録を読んで、当時の様子を思い出し
ながらとても偉大な また日米のためにこれほど
尽くした人は、そんなにいないのではないかと思う
ほどです。


本の内容は父親宛てに出した手紙を編集しています。
宣教師のオーガスト・ライシャワーは1905年来日
明治学院の教師となり東京女子大の創立に大きく関わり
1941年まで住んだ。エドウィン・ライシャワーは1910年に東京で生まれ、

大学をアメリカ 東洋史研究家として東大にも学んでいる。
夫人は、第4代首相松方正義の孫の松方春さん
ライシャワー大使は、自分を「日本語を話せる日本の友人と
その日本生まれの妻」と言い 夫妻で献身的に日米のために尽くしている。
その間、ケネディ暗殺、東京オリンピック、日韓国交正常化、
沖縄問題に尽力するも、ベトナム戦争激化に
ジョンソン大統領に合わせられず辞任することになる。
その後ハーバード大学に復職し、70歳まで勤める。
大使就任3年目に暴漢に刺され、輸血したため肝炎を
患いながら79歳で亡くなり遺言に基づき、遺灰は
太平洋に散骨したとあった。
夫人のハル・ライシャワーさんも女性や、障害者
のためにいろいろ尽くして行動している。
ただ頭の下がる思いでした。

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