2017年4月 3日 (月)

横須賀散歩と軍港めぐり

4月2日

私の尊敬する恩師(恩人)の一人、H氏を訪ねて横須賀に行く。
15.6年ぶりにお会いして、信じられないほどの感動だった。
H氏に出会わなかったら私の人生も変わっていたかも知れないと常々思っていたから・・・。
H氏は、M市にある病院の総婦長(看護部長)で看護師、学生、介護福祉士、介護士の
300人ほどをまとめるトップの人だった。私はまだ経験も浅い無資格の介護助手で
見よう見真似で働いていた。それまでの私は、友人が経営するブティックの現場
(裁断と縫製指導)を担当していたが、バブル期に倒産してから、意を決して職業を
替えて、努力はすれども無資格は大変心細く悩む日が続いていた。
駅から病院までの送迎バスの中で隣り合わせになることが多く、相談もするようになった。
「資格取得に挑戦しなさい」とアドバイスされ、病棟看護師長にも協力するようにと。
私も努力して介護福祉士、ケアマネージャーと資格を取得できた。看護部長も師長も
大変喜んでくれていたが、その後定年退職されたので、それ以来の再会となった。
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H氏の案内で市内散策。
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どぶ板通り。
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どぶ板商店街。
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三笠公園を散策。
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記念艦「みかさ」を見学。みかさは日露戦争で活躍した代表的な軍艦で、
大正15年よりここに保存されている。
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「みかさ」の由来の説明。
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東郷平八郎像。
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軍港めぐり。
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乗船を待つ観光客。
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案内アナウンサー。
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操縦士。
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乗り込む乗客。
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「174きりしま」ミサイル護衛艦。と「6102あすか」試験艦。
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「5106しょうなん」海洋観測艦。
「5104わかさ」海洋観測艦。
「5105にちなん」海洋観測艦。
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「303はちじょう」掃海艦。
「606はつしま」掃海艦。
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「153ゆうぎり」護衛艦。
「171はたかぜ」ミサイル護衛艦。
「423ときわ」補給艦。
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住友造船所。
アナウンサーの案内に右に左に移動が忙しくもう少しゆっくり
見たい未練の残る軍港めぐりだった。

2017年3月28日 (火)

読書・90歳 何がめでたい

  3月27日
 先日、NHKの夜のニュースでこの本がよく売れていると
内容も兼ねて紹介していた。書店で見かけてはいたが、
買おうとは思わなかったけれども楽しそうなので買ってみた。
佐藤愛子のエッセイは有名だけれども、初めて読むことになった。
笑いながら本を読むのは過去にあったかしら?と思うほど
楽しくあっと言う間に読んでしまった。

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自分で考えているようなことを、佐藤愛子が代弁してくれている
ような気持になる。ちょっとさわりを述べてみると、このような具合
になっている。
「若者は、夢と未来に向かって前進する。
老人の前進は死に向かう。私の夢はぽっくり死ぬことである。
私の夢はとうとうここまで来てしまった」など。
佐藤愛子も有名だけれども、兄のサトウハチロウ(母親違い)も
詩人として歌などを残している。
佐藤愛子は今年93歳になるといいまだまだ頑張るそうで
元気になれる本を読んだ気になった。

2017年3月24日 (金)

水引工芸を体験

3月24日

 正月飾りや冠婚葬祭の金一封の封筒を飾る水引に
いつも見とれていて一度は体験してみたかった。
学習センターでの講座に参加し、水引工芸の初体験をする。
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講師は、日本水引工芸創作スタジオの田中麗水先生。
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教室は10人ほど。
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基本のあわじ結びで壁掛けに挑戦している。
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うまくできなかったけれどもやはり楽しい体験ができた。

2017年3月23日 (木)

福祉園のバザー

3月22日

 ボランティアで参加している福祉園のバザーが
今日から3日間開かれる。作品つくりに少し手伝っているため
行ってみた。綾瀬駅の近くの福祉会館で開催されている。
初めての開催とのことで少し寂しいかな。
福祉園の利用者は展示品を見ながら笑顔が多かった。
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保育園と共同開催で行われている。
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展示品の販売も行われている。
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紙類は牛乳パックを溶かして紙すき機で作り
用途に向けて仕上げていく。
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小物入れやバックなどは、糸や毛糸を織物機で布に仕上げて
形に作られている。
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展示品の数々。
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紙粘土作品(牛乳パックから)
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この福祉園は、障害者(知的、視力)の通所作業所と
なっている。私は織物作業を横に見ながら小物作品の
仕上げに協力している。陳列品に見覚えのあるものを
見ると、ほほえましくなる。記念にあれこれと購入した。

2017年3月18日 (土)

読書・木戸幸一日記

3月18日

先に読んだ東京裁判(極東国際軍事裁判)は、木戸幸一の日記を証拠に裁判が進められたとあり、日記が気になっていた。木戸幸一は最後の内大臣でありその印象としては、戦争中 木戸が重臣たちを陛下への拝謁を阻止したとか、内大臣が陛下を動かしているとか、東條英機を推薦したとかで悪い印象を持っていたけれども、読んでみると全く違っていた。こんな事あんな事と時代の流れを知ることができた。

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木戸幸一日記は重要文書として図書館の倉庫に保管されていて持ち出しができないため、毎日通って読んだ。原本は昭和5年から昭和20年までの記録を毛筆で書かれているものを上、下巻にまとめている。カタカナをひらがなに替えただけの全文を記載している。「せざるべからざることなりと思う故」などの意味をしばし考えたり、メモを取りながら読むとずいぶん日にちがかかったけれども、一番気になるところは開戦の頃と終戦の頃のことがわかり、東條を推薦したときの心境や、終戦には必死の思いで軍部の各大臣を説得する様子がわかった。

御前会議の様子は一人一人の言葉を芝居の台本のように、こと細やかに記録している。強烈な印象は木戸が終戦工作をしているとき、8月13日阿南陸軍大臣が内大臣室を訪問したときのやりとりに 木戸が和平に向けた話を切り出すと、阿南は「本土決戦をするつもりだ」と木戸の意見に応じなかったので、木戸は「もし敵に上陸されて三種の神器を取られ、伊勢神宮が荒らされ歴代朝廷の御物がボストン博物館に陳列されたらどうするつもりか」と迫ると阿南は沈黙し「あなたの考えには大体賛成だ」と言って出た。そして8月15日阿南は自決した。

木戸幸一は、維新の三傑木戸孝允(桂小五郎)の孫にあたる。父(孝正)は東宮侍従長だった。木戸と近衛文麿の関係は学習院時代からの友人で共に京大に進みゴルフ仲間でもあったし、近衛の推薦で牧野伸顕内大臣の秘書官長、宮内省宗秩寮総裁を兼任するが、近衛内閣のとき文部、厚生大臣を歴任している。昭和15年西園寺公望、牧野の推薦で内大臣を終戦まで続け最後の内大臣となる。

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木戸は学生時代から日記を書いていた。

昭和5年から20年までの木戸幸一日記の原本。

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毛筆で書かれている。

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東京裁判期は、昭和20年12月A級戦犯容疑で巣鴨に収監されてから、東京裁判終了までの日記を記録し、スガモプリズンの様子や裁判の進行状況を記録している。木戸幸一日記を提供した動機は天皇陛下を裁判に出廷させないことにあり、平和主義者を証明するためでもあったが、終戦の後証拠書類は焼却されていたため、木戸幸一日記が唯一の証拠になり軍部から恨まれていた。

30回に及ぶ取り調べが行われ、日記をもとに詳しく聞かれている。法廷で前満洲皇帝溥儀が証人台に立ち、溥儀に対する尋問で「平気で虚言を吐く態度は近年にない不愉快であった」と書いている。各被告の起訴状証拠提出に木戸の日記がたくさん出されている。

昭和23年4月に審理が終わり休廷 判決を待つのみとなり、その間の不安の様子がわかる。新約聖書や仏典などを何度も読んだり、トランプで勝負ごとをしたりラジオが毎日聞けるようになり音楽、ニュースを聞くことがうれしいなど。11月12日判決が言い渡たされ、死刑7名、木戸を含め16名が終身禁固刑、東郷20年、重光8年となる。木戸は「すべての戦いは終わった 気持ちが朗らかになった」。12月23日に死刑が執行された。わざとなのか この日は皇太子(現天皇陛下)の誕生日であった。

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スガモプリズンで書かれた日記大学ノートにペン書き。

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便箋で鉛筆書きになる。

木戸幸一は10年後体調不良で仮釈放になり、大磯で暮らし昭和52年88歳で生涯を閉じた。その間天皇陛下が葉山に静養されるときは時々御用邸に訪問されていたという。

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昨日スガモプリズンの跡地に行ってみた今は東池袋中央公園となっている。

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左の方に慰霊碑が見える。

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何人かの写真と花が手向けられている。

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右の方にはサンシャイン60ビル(1978年竣工)1985年まで東洋一の高さを誇っていた。周辺のサンシャインシティ、サンシャイン通りなどは若い人でごった返し拘置所跡とは思えないほどであった。

2017年2月20日 (月)

牛天神紅梅まつり

2月19日

牛天神で紅梅まつりが行われていた。
牛天神北野神社は春日通りから少し入ったところに、1184年
源頼朝の夢のお告げに、牛に乗った菅原道真が現れ、その
ご神託により牛を守護神として頼朝によって創建された。
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北野神社鳥居
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牛天神こと、北野神社は菅原道真公が祀られている
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ねがい牛 撫でると願いが叶うと言われている
NHk土曜ドラマ忠臣蔵の恋~四十八人目の忠臣の
ヒロイン「きよ」がこのねがい牛をさすりひたすら
願をかける様子があった
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左右の牛
かって牛天神下には堀部安兵衛が通った「堀内道場」があった
きよの思い人 磯貝十郎左衛門もその道場で剣術を磨いていた
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頼朝がこの石に腰を下ろして夢を見たとあった
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女性の宮司の挨拶と二人の子息を紹介
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神社の庭には紅梅が多かった
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野点が行われてお茶とお菓子がふるまわれた
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勇壮な奉納太鼓が行われて
湯島天神白梅太鼓のみなさん
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若い女性とは思えないほど迫力のある力強い太鼓
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男性一人だったが凄い迫力
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終わって挨拶するメンバー、男性一人女性四人
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御朱印をいただく列が長々と続いている
甘酒を頂きながら隣の夫人が、毎月お詣りしている
けど、こんなに多くの人の列は初めてと言っていた
私は御朱印は頂かずに帰った。

2017年1月27日 (金)

ボランティアに参加する

1月26日
最近はずっと図書館に入り浸っていると、会話がなくなってしまった。26日はボランティアで障害者福祉施設に行く日で、初めてなのでちょっとドキドキしながら待ってると、もう一人来られたので気持ちが楽になり話してみると、その方も初めてという。手芸品の仕上げを手伝う簡単な仕事だった。
その後、レストランで食事をしながら2時間ぐらいお話しをしてすっかり意気投合し、何よりも何日ぶりでこんなに話ができたかと思うだけでも楽しかった。この方は、ご主人と紳士服の仕立てを40年も続けていたけど、亡くなられてボランティアを考えたというプロの方だった。
図書館の本も、借りて帰ることができない本は通って読むことになり、ボランティア以外の日を毎日図書館に行っている。区の中央図書館には、読みたい本が揃っていて楽しいけど誰とも話さず一日中読書もどうかなと思いながらも止められない。もう少しコントロールできるといいなと思う。

2017年1月14日 (土)

読書・東京裁判(極東国際軍事裁判)

1月13日
図書館に返却に行くと、今日は借りないと思いながら一回りし「東京裁判」の分厚い本の前で考えてしまう。返却日まで読むことができるかなと。関心があるのは東条英機の弁護人清瀬一郎と言う人である。十数年前、私は某病院の個室担当で働いていたとき、「清瀬」という病室に見舞客が頻繁に出入りしていて、客が多い時は子息が廊下を行き来していたため、立ち話をする機会が多かった。その話の中で、祖父が清瀬一郎で東京裁判で弁護をしたけれど、負けてとても生活に困ったと聞いていたのでこの際、読もうと思って借りることにした。
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アメリカ人ジャーナリスト(アーノルド・ブラックマン)が四半世紀をかけて資料を収集した事実を書いている。ブラックマンは1946年の東京裁判の取材のため来日。1948年裁判終了まで滞在した。清瀬一郎の弁護とその背景をまとめてみた。
裁判は、1946年5月にオーストラリアのウェップ裁判長で始まった。
清瀬は冒頭に 正義と公平との要求のため、ウェップがこの裁判をするには適当ではない。ポツダム宣言の趣旨を守って裁判をするにはウェップは適当ではないと裁判長の交代を要求し、ニュージーランド判事が代理で再開し、全員は無罪であると主張した。
清瀬: ドイツは無条件降伏したが、日本はポツダム宣言の降伏受諾をしたから有条件降伏だ。日本はポツダム条項の一つである戦争犯罪人の罪とは、世界共通の言葉「戦争犯罪」だけが課せられるもの。「平和に対する罪」や「人道に対する罪」について告発することは、戦争犯罪という範囲を超越する。国際法にはこのような犯罪は存在しない。ポツダム宣言は1941年~1945年までの戦争を凍結させるもので、それとは関係のない諸事件を起訴状に引用するなど断じて考えられない。起訴状の却下を要求する。
裁判は、検察側の主張や証人発言が多く、被告の弁護を却下するところが多かった。アメリカ人弁護人(カニンガム)はウェップ裁判長と幾度となく口論していた。カニンガムはアメリカ法律家協会の会議に出席し、「東京裁判の主要な悪弊」という文書を提出した。カニンガムが告発した事項を少し拾ってみる。
〇この裁判の目的は、報復であり、弁明であり、宣伝であった。
〇ロシアを含む起訴諸国は、日本に対して告発した犯罪から自国が免れていることを示せなかった。
〇まさしく法廷にロシア判検事がいるために、この裁判は矛盾したものとなった。
〇極東憲章は、明らかに事後法であった。
〇被告は、公正な裁判を与えられなかった。
〇反対尋問は、証拠の抑圧というに等しいほど制限されていた。
〇検察側証人は優遇され、弁護側証人は冷遇されていた。
〇判事たちは裁判中、何か月も欠席した。
〇侵略戦争は決して十分に定義されていたわけでもなく、処罰可能なものとされていたわけでもない。侵略戦争が犯罪であるならば、なぜ諸国は不侵略条約を作らなかったのであろうか。国家行動に対する個人責任は矛盾している。裁判所がこのような法律上の曲芸に魅せられるとは思わないと述べている。
裁判長は同僚判事たちにアメリカ法律協会は、カニンガム氏が法廷侮辱罪を犯したと考えれば、だれも耳を貸さないであろうと確信する。そしてカニンガムを「今後の審理から排除する」と宣言した。
アメリカ弁護人の一人が、清瀬弁護人は世界最高の法律家の一人と絶賛していたが、弁護をことごとく却下されて裁判は終了した。
死刑を宣告された7人:東条英機、土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章。
東京裁判は、勝者が敗者を一方的に断罪した報復的な政治裁判だった。

2017年1月 7日 (土)

93歳でパソコン(mac)を操作する人

1月6日

93歳の元担当していた利用者(A.H氏)を訪問。
在職中は訪問も数分で退出していたが、今日はゆっくりと
お話ができた。
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A.H氏は富岡製糸場と関係が深いとは聞いていたが、
そのことについても詳しく聞くことができた。
今は、世界遺産となった富岡製糸場の親会社片倉工業の
元幹部社員だった。当時の富岡製糸場を知るただ一人の
生き証人である。操業停止を決定したメンバーの一人でもあった。
昭和30年代にコンピューターをIBMから導入し各会社へ広め
指導をしたという、草分け的なシステムエンジニアだった。
今でもパソコン操作は日常生活に欠かせないという。例えば
通院前の一週間朝・夕の血圧の記録をグラフにして受診日に
提示する 日常の買い物はネット通販でとか家計簿や
確定申告など金銭管理もしっかりできる。
数年前は、軽い脳梗塞を起こしたとき、ネットで症状を確認し
緊急の通報ボタンを押し、救急搬送されて大事にはならず
後遺症も残らなかった。
話も理路整然として記憶力も抜群で、見た目には介護保険を
利用するに当たらないように思えて、当初はこのような人が
もう何人かいたらさぞケアマネも楽かと思っていた。ところが
2年前、歩行が弱いのでリハビリにデイサービスを利用していたとき
体調が悪化し救急搬送されたと連絡があり、病院に行くと
敗血症と聞き唖然とした。(敗血症とは菌が血管に入り臓器不全を
起こし一夜にして死に至る病気)一人暮らしで家族とは疎遠になっている。
私は、もう死後の対応を考えていて 後見人がいないため
家族への連絡、決定者、保証人などについて所長と包括支援、
区役所を駆け回りながら情報を集め、死亡通知が来ると思っていたら
来なかった。様子を見に行くと話ができる状態に回復していたが
でも在宅生活は無理と思い、ホームや長期療養型などの情報収集をしている。
さらに、数日後はリハビリをしているという報告を受け、車いす生活かもと
福祉用具へ手配していると、1ヶ月半で歩いて退院したと報告を受けた。
あ~この空回りは何だったのかと、ひどい疲れを覚えたことを話したら
「もう今は万全な体制をとっているから大丈夫です」といっていた。
初動対応が早かったし、処置も的確だったことが命を救ったと思っている。
今月は介護保険の更新があるというので、調査の折「自転車に乗って
いるなど言わないでね」と助言して退出した。
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今年の初日の出を写真撮影しデイサービスの壁に
掛けていると言っていた。

2017年1月 3日 (火)

読書・歴史を動かした女たち

1月3日

図書館で興味のある本を探すこと1時間ほどで

見つけた1冊を読んでみると、映画やドラマ、歴史本に

登場する人ばかりだった。ただ一人一人の背景と人生を

書いている。

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「原始女性は太陽であった」という書き出しが面白い。

明治44年平塚らいてうが初の女性誌「青鞜」の創刊号に

掲げた一文である。「私どもは隠されてしまったわが太陽を

取り戻さねばならない」と宣言した。

天照大神は女神である。二・三世紀に実在した卑弥呼は中国の

史料に記録されている。八世紀ごろまでに登場する女性天皇も

多く、政治に関わる皇后も多かった。その後は男性社会となり

女性は支える側になる。文学面では名を残す人が多い。

以外なのが歌舞伎の創始者は出雲の「阿国(おくに)」女性だった。

江戸時代に男性だけが演じるようになる。

女性が演劇界に進出する道を開いたのが明治41年

帝国女優養成所を創設した川上貞奴だった。

明治になって女流小説家・歌人が続々登場し、岡本かの子は

あの岡本太郎の母親だった。ソ連に亡命した岡田嘉子は母親が

オランダ人との混血であったと述べている。33年ぶりに一時

帰国したときは70歳だったが気品のある美貌は記憶に残っている。

«一年の計は元旦にありと言うけど。